−第82回−文化財 仏像のよこがお「妙法寺大日如来坐像と奈良仏師」
- 2026/9/25
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- 文化財 仏像のよこがお
前回コラム(2026年8月29日発行号)で、奈良仏師が造った橋本市谷奥深の光明寺大日如来坐像を紹介しました。その光明寺像とよく似た作風と技法を示す仏像が、有田市新堂の妙法寺に伝わります。
妙法寺の本尊は、髻(もとどり)を結い、腹前で定印を結んだ胎蔵界大日如来坐像で、像高127・8センチの大きな仏像です。平安時代後期の仏像様式を示しつつも、髻を太く高く結い上げるのは平安時代初期の密教彫像を模範としたもので、12世紀後半の奈良仏師の作例に見られ始めます。髻上部の前方に細い髪束で大ぶりの花形飾りを表す意匠も、鎌倉時代にかけて奈良仏師・慶派仏師(奈良仏師のうち康慶以降の一門)が多く採用しますが、その早い時期の一例です。腰に着けた腰布の背面側に横じわを表すのも奈良仏師・慶派仏師の作例の特有表現です。これらは光明寺像とほぼ共通しています。
構造にも特徴があります。全身は髻を含めて1本のヒノキから造り、後襟付近で前後に割って内刳(うちぐり)を施し、頭部を首下で割り離します。さらに頭部も髻の頂部から耳の後ろを通る線で前後に割って内刳し、髻を天冠台の内側で切り離しています。髻を頭体幹部材と同じ木から木取りした後、割り離すという技法は光明寺像と共通し、他に例の少ない珍しいものです。こうした類似から、両像は同一仏師か同一工房による、たいへん近い環境で作られたことがうかがえます。
妙法寺がある新堂地区を含む有田川河口部の両岸にまたがる一帯は宮崎荘という荘園で、1086年(応徳3)に熊野山に一部の免田(税が免除された土地)が寄進された後、那智山領として推移したようですが、支配の実態は分かりません。
一方で、有田川上流には高野山とその荘園が広がり、流域一帯には高野山の文化的影響が強く及んでいます。本像の像内に1281年(弘安4)に法橋定祐が修理したことが記されますが、この仏師は香川県松尾寺の弘法大師坐像を1319年(文保3)に造像した法眼定祐と同人とみられ、高野山や真言僧と当地が継続的につながっていることをうかがえます。
高野山の北東と南西、50キロ離れた地に伝わる2体の大日如来像の類似は、高野山文化圏の広がりを可視化するものです。仏像は地域の歴史を確かに語りかけているのです。
(奈良大学教授・大河内智之)

妙法寺 大日如来坐像
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