−第53回−文化財 仏像のよこがお「歓喜寺上品堂の阿弥陀如来坐像」
- 2024/4/25
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- 文化財 仏像のよこがお
明恵上人(1173~1232年)ゆかりの有田川町の歓喜寺は、当初は華厳宗寺院でしたが、後に浄土宗へと転宗し、江戸時代の初めに瑞応素川(ずいおうそせん)という僧侶が入山して、伽藍(がらん)の整備に努めました。このコラムの第48話(2023年11月25日号)では、瑞応素川が下品堂(げぼんどう)を建立し、そこに石垣千体仏を安置するとともに、歓喜寺の由緒を恵心僧都源信とつなげた縁起を編さんしたことについて紹介しました。
縁起には、自らが整備した歓喜寺伽藍の情景も記されています。そこでは、下品堂について述べた後、さらに重ねて「上品を来迎の嶺(みね)に建て、中品(ちゅうぼん)を南の瓦上(山上)に移す」と語ります。
上品・下品は、品格の上下を示す言葉として、現在一般的に使われていますが、語源は仏教用語です。『観無量寿経』という経典には、人々を仏教修行過程の到達点に応じて、上品上生から下品下生までの9段階に分け、来迎往生の仕方に違いがあることを説いています。瑞応素川が一寺に上品堂・中品堂・下品堂を設けたのは、阿弥陀如来の救済が広く、全ての人々に及ぶことを、寺内で体現しようとする意図によるのでしょう。
下品堂には、千体仏と称される多数の阿弥陀如来像が安置され、中品堂には石造りの阿弥陀如来坐像が安置されています。瑞応素川が「来迎の嶺」と名づけた上品堂に安置されるのは、重要文化財に指定される木造の阿弥陀如来坐像です(写真)。1897(明治30)年の日本で最初の国宝指定物件の一つで、顎が細く、頬が引き締まる一方、胸や腹の区切りは緩やかで、南北朝時代ごろに造られたとみられます。
腹前で阿弥陀の定印を結んで座る姿は、極楽浄土で往生者を迎える姿です。おそらくは寺内に伝わっていた本像との出合いが、瑞応素川が三堂をそろえる構想の出発点だったのでは、と想像しています。
歓喜寺は、老朽化が進む上品堂を次代へ継承しようと、修復勧進のためのクラウドファンディングを行っています。5月31日(金)午後11時まで。
レディーフォー(https://readyfor.jp/)「歓喜寺」で検索できます。
(和歌山県立博物館アドバイザー、奈良大学准教授・大河内智之)
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