−第81回−文化財 仏像のよこがお「光明寺大日如来坐像と奈良仏師」
- 2026/8/27
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- 文化財 仏像のよこがお
光明寺大日如来坐像と奈良仏師
前回のコラム(2026年7月25日号)で、平安時代末に奈良仏師が作った紀美野町大日講に伝わる2体の菩薩(ぼさつ)像を紹介しました。奈良仏師は、平安時代後期から奈良・興福寺を拠点として活動した仏師の一派で、京都に拠点をおいた院派仏師、円派仏師とともに仏像制作を主導しました。
奈良に伝来する多数の古代彫像に接する機会が多く、その影響を受け、円満で穏やかな当時流行のスタイル(定朝様式)と異なる、新しい仏像様式を芽生えさせました。特に康慶・運慶父子による積極的な古典学習とその昇華の過程で、はつらつとした鎌倉時代の新様式が生み出されたのです。そうした奈良仏師による作例が、高野山文化圏に多く残されています。
橋本市南東に位置する谷奥深(たにおぶか)地区は、『紀伊続風土記』に「薬研の底に居るが如く」と形容される谷間の集落で、また「多く桃をうえて桃源の如し」とも伝えています。隣接する峯奥深村(五條市大深町)と、かつて一村であったと伝えるものの、峯奥深村は室町時代には大和国坂合部郷に含まれ、高野山領の境界地として複雑な歴史的経緯をたどったとみられます。
集落内に建つ光明寺の本尊は、胸前で智拳印(ちけんいん)を結んだ金剛界大日如来坐像です。像高は99・4センチ、頭体通して前後に2材を組み合わせた寄木(よせぎ)造で、頭部だけでなく髻(もとどり)部分も天冠台(てんかんだい)上面で割り離す技法を用いています。
円満で穏やかな平安時代後期の作風を示しますが、太く高く結い上げた頭上の髻や、腰下にまとった腰布の背面側に表した横じわは、12世紀後半の奈良仏師の作例に共通してみられる表現です。これらの形状は、平安時代前期の初期密教彫像を写したものですが、そうした正統的な図像が復活する背景には、密教の根本道場であり、初期密教彫像が伝来していた高野山の地理的・思想的な影響があるとみられます。高野山も、鎌倉時代の新様式を萌芽させる一つの場であったのかもしれません。
優美な光背と台座(一部)も当初のものが残され、2022(令和4)年に和歌山県指定文化財となりました。傷みが大きく、三菱財団と県・市の補助を得て、今年から修理に着手しています。高野山麓の別天地には、2年後の桃の花の咲くころに環座する予定です。(奈良大学教授・大河内智之)

光明寺 大日如来坐像
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